現在ある比較的新しい酒蔵は昭和に建てられたもので築80年程。古い土蔵は外見こそ古いですが、内壁がステンレスで、巨大な冷蔵庫のようなものです。そこでは菌床の作業が行われています。
このように越銘醸はその草創期から、様々な災害や歴史の波にもまれながら、現在も精力的に酒造りを続けています。ここからは、越銘醸誕生における、大きなターニングポイントとなる2つの酒蔵の合併のお話です。
その昔、栃尾では、小林家の山城屋、今成家の山家屋(やまがや)という2軒の酒造店が、江戸時代から明治、大正、昭和まで酒造りをしていました。昭和9年、物不足のあえぐ世相の中、山城屋と山家屋が合併し、栃尾町(栃尾は昭和29年に市政施行されるまで、栃尾町でした)第一号の株式会社となりました。山城屋と山家屋がそれぞれ当時の金額で20万円、10万円を福田屋旅館や恵比仁などの料亭、大和屋や三崎屋などの醤油屋が出資し、資本金50万円で設立されました(福田屋旅館、恵比仁、三崎屋醸造は現在も営業しています)。
今成家は栃尾随一の資産家で、当主は東京新宿に住まい、栃尾の酒蔵は番頭に基本経営を任せていたといい、そのような背景から、合併を選択したと考えられています。
当時の資本金50万円を、米価を基準に推測すると、現在の1千万円ほどではないかと言われていますが、金相場から推察する昭和9年の貨幣価値は、1円あたりが現在の1500円〜2200円(金相場の変動により、推測に幅が出る)。中間をとって1円あたり1850円として現在の金額に換算すると、9億円を超えることになります。いずれにせよ現在の栃尾で出資を募ることを考えたとき、俄かに想像しにくい数字であり、当時の栃尾の経済が現在とは比べものにならないほど活発であったことが伺えます。
この合併時に名付けられたのが、現在の社名である越銘醸株式会社です。
戦国最強の武将上杉謙信が青春時代を過ごし、初陣を飾った土地。全国に信仰を広め、東京秋葉原の語源ともなった秋葉信仰発祥の地。神々の加護を受け、縄文の時代から人々が暮らすこの栃尾という雪国の小さな町で、わたしたち越銘醸は、地元の米と水、代々受け継がれた蔵や文化と真摯に向き合いながら、酒造りを続けています。