第2回 合併、栃尾とのあゆみ

 天明7年(1787年)3月4日、火災により酒蔵一帯が消失した。当時あった山城屋、山家屋(やまがや)が焼けたが、酒造りの必要性から大急ぎで建て直したものである。約220年前の事であった。
現在ある比較的新しい酒蔵は昭和に建てられたもので80年程。古い土蔵は外見こそ古いが、内壁がステンレスで、巨大な冷蔵庫のようなもの。そこでは菌床の作業が行われる。
 このように越銘醸はその草創期から、様々な災害や歴史の波にもまれながら、現在も精力的に酒造りを続けている。第2回では、その一旦をご紹介する。第2回の冒頭で紹介するのは、越銘醸誕生における、大きなターニングポイントとなる2つの酒蔵の合併である。
 その昔、栃尾では、小林家の山城屋、今成家の山家屋(やまがや)という2軒の酒造店が、江戸時代から明治、大正、昭和まで酒造りをしていた。昭和9年、物不足のあえぐ世相の中、山城屋と山家屋が合併し、栃尾町(栃尾は昭和29年に市政施行されるまで、栃尾町であった)第一号の株式会社となった。山城屋と山家屋がそれぞれ20万円、10万円を福田屋旅館や恵比仁などの料亭、大和屋や三崎屋などの醤油屋が出資し、資本金50万円で設立された(福田屋旅館、恵比仁、三崎屋醸造は現在も営業している)。
 今成家は栃尾随一の資産家で、当主は東京新宿に住まい、栃尾の酒蔵は番頭に基本経営を任せていたといい、そのような背景から、合併を選択したと考えられている。余談であるが、森前長岡市長の祖母は今成家の出身であり、森前市長は小林社長に会う度に、「自分は栃尾のクウォーターなんです」と言っていたという。現在今成家の末裔は栃尾にはいない。
 現社長小林氏の話では、当時の資本金50万円は、現在の1千万円ほどではないかという事だが、その価値は米価を基準に推測されたものであり、金相場から推察する昭和9年の貨幣価値は、1円あたりが現在の1500円〜2200円(金相場の変動により、推測に幅が出る)。中間をとって1円あたり1850円として現在の金額に換算すると、9億円を超えることになり、小林社長の推測とはかなり大きな開きがある。この貨幣価値のズレについては小林社長も認めるところであるが、いずれにせよ現在の栃尾で出資を募ることを考えたとき、俄かに想像しにくい数字であり、当時の栃尾の経済が現在とは比べものにならないほど活発であった一つの証明とも言える。それらの数字が確かなものとすると、往時の栃尾の活気が想像されるようである。
 この合併時に名付けられたのが、現在の社名である越銘醸株式会社である。越銘醸株式会社は、栃尾で最も古い酒造会社というだけでなく、平成29年に83期目の決算を迎える、地域で最も古い法人でもある。

 現小林社長は6代目にあたる。古い酒蔵では14代にもなる(十四代というブランド名にもなっている高木酒造が有名)日本の酒蔵の中では、越銘醸は比較的若い部類に当たる。
 昭和40年前後、繊維産業が栄えガチャ万時代を迎え、この小さな山間の町に、210社もの繊維会社がひしめいた。当時の栃尾の人口は約38000人。栃尾高校には3つの定時制があり、繊維工場は24時間稼働している状況であった。定時制の学生は、通っている学校の教員より高い所得を得ていた人もいたという。
 企業はこぞって収益から様々な寄付を行い、それらの余剰から財団法人を設立し、奨学金制度を立ち上げた。その法人の名は、鶴城奨学会。越銘醸は栃尾城跡の膝下に位置し、地域の人々から城山(しろやま)と呼ばれ親しまれている栃尾城跡の正式名は『鶴城山』という。

長尾景虎(後の上杉謙信)居城跡がある鶴城山。地域の人々から城山と呼ばれ親しまれている。

 小林社長は昭和45年に越銘醸に入り、間も無く半世紀を迎える。酒蔵が大変な時を何度も経験した小林社長だが、その中でも平成16年の7.13水害を振り返り語った。その水害の折、蔵の真裏の山に土石流が起き、真夜中、轟音とともに山が崩れた。不景気と日本酒の不人気とにあえぐ中の災害であったが、不幸中の幸いとでも言おうか、沢に置かれた丸太がダムになり、僅かに谷を外れ直撃をまぬがれた。地域に甚大な被害をもたらした土石流で、直撃した場合、廃業の憂き目にあったと思われる。また、同年10.23に発生した中越地震もまた地域に大きな被害をもたらした。しかしながら、そのような大災害にもかかわらず、当時長岡にあった17の蔵元の中で、越銘醸は最も被害が少なかった。いくつかの蔵元が土蔵を崩す被害に襲われる災害の中、越銘醸では一升瓶1本割れることがなかった。

第3回に続く